生きた証よりも生きた意味

昔の仕事で外回りをしていた時、中堅規模の会社を顧客としていました。会社を訪問すると、中堅規模の会社の受付には、受付の専任者はいません。カウンターに内線電話か、受付用端末が置かれています。その電話のカウンターの隣に創業者の胸像が置いてあります。私の担当した顧客のうち、半数くらいの比率で胸像がありました。

一般的に誰も知らない人の胸像が会社の受付の内線電話の隣にひっそり置かれている姿を見ると失礼ではありますが、へんな風習だと思います。

先人への感謝の意識は持たねばなりませんが、現在、働いている社員が創業者の胸像を見て、創業者に感謝を思い起こすことには残念ながら繋がりません。以前にも申し上げましたが、創業者や会社の代表が会社を去ったとしても、2週間もすれば、従業員の話題にもならなくなります。その従業員の意識が低いわけでもなく、そういうものです。

自分の退職後や死後に、社会的な評価を維持する必要はないし不可能だと思います。「生きた証」を周囲の人間の記憶に残すよりも、「生きた意味」を自分自身が感じられることを考えるべきだと思います。

今、従事している仕事は自分にとって意味があるか、その意味は、自分の中で腑に落ちているかということが大切だと思うのです。

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